現在、浅草を中心に普及しつつある投扇興「其扇流」は、流派として正式に発足したのが昭和50年代と意外に歴史が新しく、由来もはっきりしています。
上野の不忍池・弁財天付近の石碑の一つに「扇塚」という塚が建立されています。
扇塚というのは京都、熱海、延岡、八戸など全国のあちこちに見られるもので、ここ上野の扇塚は昭和24年(1949年)に建立。初代花柳寿美さんが45年間愛用した扇を埋めたものだそうです。

”ああ佳き人か おも影もという詩が刻まれています。
しのばざらめや 不忍の
池のほとりに 香を焚き
かたみの 阿ふぎ納めつつ”
全国の扇塚では、芸妓さんたちが稽古や発表会で使った古い舞扇を供養する「扇塚供養」という行事が行なわれたりしていますが、浅草観光連盟ではこの「扇塚供養」の人気テコ入れとして「何か扇にまつわるイベントで、浅草にゆかりのあるものを」と考えた結果、古い文献や関係者の話を頼りに、「投扇興」の再現に取りかかりました。
江戸時代に源を発し、明治時代にはお座敷の余興として楽しまれるようになった浅草の投扇興は、その後は次第にすたれていき、特に戦後はほとんど見られなくなっていたようです(他の地方では違う歴史をたどっていると思いますが)。
そこで復元にあたって特に参考になったのが、歌舞伎座関係者のところにあった写真だったとのこと。歌舞伎役者や力士が投扇興で遊ぶ様子を写した、昭和10年代のものでした。これによって扇の投げ方の所作や立ち居振舞い、言葉遣いなど、全体のイメージが浮かび上がり、宙返りして飛んでいく扇など絵になる美しさに代表される投扇興の魅力が、現代に蘇ることになりました。
(毎日新聞社提供)
この写真は、毎日フォトバンクでキーワードに「投扇」を指定して検索すると見つけられるものです
(料金は7350円でした(^_^;))。
歌舞伎座3階の大部屋で撮影されたものとのことで、昭和26年のものですが、ミニチュアの土俵をしつらえているあたりなど、まさに上記(昭和10年代)の物と同じ光景であろうと思われます。「復活実演」という注があることから、当時も終戦直後ということで、すでにすたれつつあったのでしょう。
これを見ると、京都とは違う江戸の投扇興独特の前屈みの姿勢が、現代の其扇流ではなく当時から見られたことがよくわかります。
ちなみに、扇を投げている方の右手に座って観戦しているのは、2001年7月に惜しくも亡くなられた、人間国宝の市村羽左衛門丈だそうです。
古文書「投扇式」に登場する考案者の名前(投楽散人其扇=とうらくさんじん・きせん)にちなんで流儀は「其扇流」と名付け、最初は広く普及することを優先してルールを簡略化するなど、独自の工夫も凝らされました。
現在では、「東都浅草投扇興保存振興会」のメンバーとして活動する熱心な愛好家が、地域や世代を越えて約二百人にまで増えており、定期的な例会や大会が開催されるほか、「連」と呼ばれる少人数のグループごとの練習も盛んです。
段位制も設けており、有段者になると、一人一人が「号(銘)」を名乗れるなど、他の地域には見られない独自の発展を遂げています。
毎年春の浅草観光祭で一般向けに行う「投扇興の集い」は、今年(2019年)で38回を数え、テレビの時代劇のシーンやバラエティ番組にも協力するなど、徐々に活動範囲も広がってきています。
振興会の春木・前理事長は、「人寄せに一役買って欲しいという了見は、会を始めた最初のうちだけ。今では、遊びの中にある文化を残す使命みたいなものを感じるようになった」とおっしゃっていました。
会を始めた当初は「普及」を優先し、古式より進行のテンポを速くしたり、見立ての数を半数以下に減らしていましたが、ほぼ10年ごとに少しずつ復元していき、2013年に元の54種類が完全に復元されています。
参考文献:
1998年10月14日付・日本経済新聞夕刊・社会面「遊びの心を伝える」
1991年12月13日付・読売新聞朝刊・都民版
他、浅草観光連盟の方に直接伺ったお話をもとにまとめました。